一年前のあの日からの記録。

3.11の震災の日。
そしてその後のこと。
思い出しながら記録しておく。
もう既に細かい記憶が曖昧。




その日は午前も午後も夜も予約があった日で、午前のお客様が終わった後に、一旦自宅に戻って用を済ませ、そして午後の仕事に入った。

愛犬ゴンは、いつもの通り2階のリビングにひとりでいた。
「ゴン、行ってくるね〜」と声をかけて、いつもの場所、階段のところで別れた。

午後はスクールだったので、お客様のOさんと椅子のある方の部屋で、お互いに、たしか椅子に座っていた状態で、突然大きなアラームが鳴った。
初めて耳にした携帯の地震速報のアラーム。
何の音?!と思った数秒後に、巨大な揺れが襲った。
Oさんは、電気スタンドを抑えて下さって、私は夫がサロンのオープンにプレゼントしてくれたipodのスピーカーが置いてあった棚を抑えた。
立ってられなかった。
長い長い揺れ。船酔いのように気分が悪くなった。

やっと少し揺れが収まった頃に、割れたものを少しだけ片付けて、Oさんとサロンを出た。
自宅が遠いOさんを送り届けることは出来ず、どうか無事にご家族と会えるように祈って別れた。

私はなんとか車を運転しながら、自宅へ向かった。
Oサンは結局歩いて帰られたと、後から伺った。

車が上下に揺れるくらいの大きな余震が何度も何度も。
近道の線路は遮断機が降りたままで渡れない。
交差点を何個も通って渋滞の中、やっと自宅へ。


夫がすぐに息子の学校に迎えに行ってくれたので、ジナンは家に居て、チョウナンはその後に帰ってきた。
二人とも自宅の近くの学校だったので、あまり心配はしなかった。
夫はすぐに職場に戻った。
(それ以来たまに様子を見に帰ってくるくらいで、ずっと職場に泊まり込みだった。)


電気とガスは止まっていたけれど、水は出たので、まずはあらゆる鍋や容器に汲めるだけ水を汲んだ。
そのうちすぐに赤い水になって断水してしまったけれど。
お風呂にたっぷり汲んだ水はトイレに使った。

家の中はぐちゃぐちゃ。
あの重くて頑丈な薪ストーブでさえ動いていた。
雪が降ってきた。
リビングから見た吹雪の景色は今も良く覚えている。
そんな中、少しずつ壊れた食器を片付けていた。

(何日も過ぎてやっとインターネットが使えるようになったとき、あの吹雪の中、大津波によって沢山の沢山の人が犠牲になった映像を観た。もう動悸がして涙が止まらなかった。被災地にいた私たちは、情報が寸断されてしまったので、知るすべがなかった。私は母が津波で流されたことも知らず、家の中を片付けていたのだ。それがとても悔しくて、悲しくて、心が潰れた。)

携帯はほとんど使えなかったが、一度だけ奇跡的に、いわきの浜通りに住む実家の父から電話が入った。
「お母さんが津波で流されたんだ。でも怪我だけで助かったから大丈夫だ。今はKの家にいるから大丈夫だ。」と。
津波で流された??
ラジオの情報しか入らなかったので、津波で流されたということが想像が出来なかった。

暗くなった近所のコンビニで、棚に残っていた芋けんぴのお菓子を買って、子供たちに食べさせた。
何度も襲う余震で、特にジナンが怖がった。
ゴンも余震のたびに吠えた。
(チャクラは大丈夫だった)
深夜まで私の小さな軽自動車の中でラジオを聴きながら過ごした。
停電で真っ暗だった夜空には、満点の星。
被災地で、あの星空を沢山の人が見ていた。
それぞれの場所で.......あの夜空の下で凍えながら亡くなっていった沢山の命があった。


だんだん狭い車内で身体も痛くなってきたので、なんとか嫌がる息子たちをなだめて、真っ暗の家の中に入った。その途中も何度も何度も余震があって、本当に怖かった。

2階のリビングに布団を運んで、枕元にはゴンのハウスを置いて、服を着込んだまま布団をかぶった。
余震の度に、ジナンが声をあげて飛び起きた。
ゴンも一緒に吠えて怯えた。
電池があまりなかったので、ラジオも付けたり消したりを繰り返しながら。

朝になって、たしかその日は近所のスーパーに行ったり、家の前の公園の水道で息子たちに水を汲んでもらったりしたんだと思う(もう記憶が曖昧)。
もちろんスーパーに行っても店内には入れなかったので、お店の前で店員さんが電池や飲み物などを売ってくれていた状態。
息子たちも協力して長い時間並んでくれた。

食事は買い置きのもので、カセットコンロで簡単なものを作って食べた。
冷凍庫のものも寒さのためにすぐにダメになることもなく、父が送ってくれた烏賊があったので、それを焼いて息子たちに食べさせた。
玄米も一度に沢山炊いた。

物置に石油ストーブがあったので、屋外にある灯油タンクから小型タンクに灯油を移して使うことができた。それで調理も出来たので助かった。
でも余震が多かったので、実際使うのも怖かった。

不自由しながらも、結局カップ麺とかは一度も食べなかった。
そして出来るだけ水を使わないように、あらゆる工夫をした。


たしか15日か16日に、山形の夫の母が車で迎えに来てくれることになった。
電気が通ったので(テレビやネットは点かなかったけど)プロパンガスのオーブンでありったけの酵母を使ってパンを焼いて、近所の友人に配りながら米沢に行くことを話した。

(電気が点いたことは、深夜目が覚めたときに街灯が点いていたことで知った。息子たちに知らせてすごく喜んだ!)

そして夫と犬たちは残ったが、私と息子は夫の実家の米沢に避難することなった。
夫がとにかく原発が危険だから、仙台よりは山を挟んだ米沢のほうが安全だと判断したのだった。
でもあのとき、自分たちだけ仙台を離れることに後ろめたさでいっぱいだった。
嬉しいとか、そういう気持ちには一切なれなかった。


米沢は、何も無かったかのようにいつも通りだった。
温かい部屋で美味しいご飯を頂いた。
数日間、お風呂にも入れなかったし、手もちゃんと洗えなかったので、久しぶりのお湯がすごくありがたかった。
でも未だお風呂にも入れない人を思うと申し訳ない気持ちでいっぱいで、その晩はやっと身体を洗っただけで、髪は洗えなかった。


それから毎日テレビやネットで情報を得ながら過ごした。
電話が出来たので、いわきの友人の安否も確認できた。
いわきでも被害が酷かった豊間の友人は命からがら逃げて助かった。
家も全て失ってしまった。

私の実家は、福島原発から34キロのいわき市の浜通りにある。
両親は原発が危険な状態だったので、日立の親戚の家に避難したが、途中でビジネスホテルに移動していた。

そして。
学校が始まるという知らせが入ったので、義母が長い時間並んでガソリンを入れてくれ、仙台に送ってくれた(日にちがはっきり覚えていない)。
本当にありがたかった。
そしてホテルから一時自宅に戻ってしまった両親を説得して、仙台の自宅に来てもらった。

しばらく両親と一緒に暮らした。
母の足の怪我を里芋湿布で治した。
父と協力して何時間も並んでガソリンも入れた。
避難物資も届けたりした。
サロンの仕事も再開した。

今もその頃の日々を思い出すだけで、涙が溢れてくる。
無我夢中だった。

そして実家の水道が通ったので、両親は住み慣れた自宅に戻っていった。

父は私がパースにきてから、脳梗塞で倒れた。
幸い命は助かったが、麻痺が残った。
母は麻痺が残ってしまった父を自宅で介護することは無理だと判断した。
それにまた大きな地震や津波が来たら、父を抱えて逃げることもできないからだ。
母は長年経営してきた美容室も閉め、家も売ることにした。
そして、二人で市内の有料老人ホームに入居した。
その決断の早さはあっぱれである。

5月末にパースに来る前に、仙台に両親と弟家族が会いにきてくれた。
元気な姿の父をみたのはあの時が最後。
時々電話で話す父は、病気のせいか少し情緒が不安定になった。


私たちは、被害も少なく幸運だった。

今回はここまで。
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Commented by jiji0508 at 2012-03-14 22:08
いつもお邪魔しています。特にパースに行かれてからずっと。マメさんがパース行きの決断はちょっとわからないですが、いつもマメさんの行動力と、人間らしさにいつも惹かれてお邪魔していたのです。つらい想いを又文に書くことを思うといたたまれませんが、遠くにいる私達が現実をリアルに知ることになります。私達がちゃんと自分のこととして受け止めること。又心の整理が整ったら続き、聞かせてください。
Commented by hiyokomame-bread at 2012-03-14 23:10
>jijiさんお久しぶりです。お元気そうで何よりです!

そして嬉しいコメントも残して下さってありがとうございます。あんなに大変な出来事も、時が過ぎていくに従って、忘れていってしまうものです。特にあの頃は記録する余裕さえありませんでしたから。自分のためにも、残しておくべきだと思いました。泣きながらの作業なのですが、それが逆に癒してくれるような気がします。
Commented by ゆか from 韓国 at 2012-03-18 16:08 x
その昔、Iさんのお料理教室でご一緒させてもらった韓国在住の者です。ご無沙汰しています。
マメさんのブログ、拝見させてもらって涙が止まりません。
未熟すぎる私、無知な私、無力な私が情けなくって。
大好きな日本が、誇りに思う日本が、そんな勝手な思いが現実を直視させませんでした。本当にごめんなさい。
みなさんがどんなけどんな思いをされていたか。申し訳ないくらいに。自分が恥かしくなります。
今マメさんがいらっしゃるパースは、私と夫が出会った場所なんです。でも今、その夫とも別れの道を。
運命や、愛や、別れや、出会い。。そういうのを私はないがしろにしてはいないか。自分の意思を間違って働かせてないか。
未熟でちっぽけな自分ですが、せめて精一杯、しっかり生きなくては…。この命、この生に感謝して。日本と、日本で懸命に暮らされてる方々を想いながら…。
まとまらない内容ですみません。
まめさん、ありがとうございます。寒くなりゆくパースでお体ご自愛ください。
Commented by hiyokomame-bread at 2012-03-18 20:13
>ゆかさん、お久しぶりです。その節はご心配くださって本当に嬉しかったです。ありがとうございました。

これは自分のための記録のつもりでしたのに、そんな風に受け止めて下ってこちらこそ感激です...。私はたったこれだけの被害です。もっともっと大変な思いをされた方々、亡くなってしまった方たちの分も、しっかりこれからの日本をみていきたいです。日本を離れてみると、いいところも、そして悪いところも、良く見えるようになりますよね。韓国での暮らしはいかがですか?
パースでご主人と....。何組もの国際結婚の友人がいますが、それぞれ国際結婚ならではの苦労があるようですね。
でもゆかさんは今韓国に住んでいられることはラッキーだと思います。胸を張って、お互いに故郷を想いながら元気に生きていきましょう!
私もまとまらない内容ですみません(笑)。

日本でお目にかかるのは難しいかもしれませんが、是非パースへ遊びにいらして下さい。

by hiyokomame-bread | 2012-03-12 23:29 | パースからの日記 | Comments(4)

This is the record of my everyday.


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